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デイトナ24時間レース:日産、かく戦えり

2012年1月、米国フロリダ州のデイトナ国際スピードウェイに、50周年を迎えるこの耐久レースを祝福しようと多くのレースファンが詰めかけました。この50年間のうち、日本のファンにとって特に1992年のレースが記憶に刻まれていることでしょう。

その頃よりロレックスが大会スポンサーとなっており、1992年のレースの参加台数は当時の経済状況の減速を反映して49台でした。

ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(NISMO)は1984年9月に設立され、レースやラリーカーの設計開発を担当してきましたが、過酷なデイトナについては、あまり事前情報はありませんでした。

NISMOはプロトタイプカーR91CPにて、長谷見昌弘、星野一義、鈴木利男をドライバーとして参戦を計画しました。この3名のうち米国での参戦経験は長谷見選手のみでした。

当時、日産自動車のスポーツ車両開発センターでこのレースカーの開発を担当した柿元邦彦は、デイトナでの優勝は日産のモータースポーツの歴史の中で大きなマイルストーンとなったと振返ります。

柿元:日産自動車って自動車メーカーですよね。屋根のかぶった車の頂点のレースである24時間レースというのが、やっぱり目指すべき頂点かなということで、それを目指して取り組もうという方向が日産の中で合意が取れている状態でした。ルマン24時間レースにつながるものとして、デイトナ24時間レース、それからスパ24時間レースというのがありますね。だからモータースポーツをやっている関係者としては、その3つの24時間レースを制するというのがモータースポーツとして目指すべきことじゃないかと。

エンジン出力を制限するレギュレーションの関係で、NISMOが参戦した車両は他のGTPクラスの競合車より多くピットインが必要でした。ゼッケン23号車は、1991年の全日本スポーツプロトタイプカー選手権のチャンピオンカーR91CPをベースにデイトナ用に改良されたものです。

柿元: 日産のグループCカーというのは(当時)シリーズチャンピンを重ねておりまして、そのグループCカーを改造して、デイトナに臨んだという経緯があります。エンジン出力が800馬力ぐらいありますので、すごくスピードが出るんですね。

日産は1990年まで英国のメーカーが開発したシャシーに自社エンジンを搭載してましたが、フルカーボンコンポジットのボディをまとったR91CPは100%内製でした。当時46歳の長谷見選手、45歳の星野選手、そして35歳の鈴木選手は1991年の後半までデイトナ参戦を知らされていなかったようで、星野選手は情報収集に急いだといいます。

星野: 3、4ヶ月ぐらい前でしたかね。デイトナのコースへの知識が薄かったんですが、クルマを操ることに関しては、俺はプロフェッショナルだという感覚でいるから、コースが変わればいち早く歩いてコースチェックをし、とにかく練習量が少ないとか、一切言い訳がきかないわけだから、デイトナに行ったらコースを歩きましたよ。歩いてコーナーのイン、アウトを見て、その頃はパソコンなどデータのない時代だから、自分の目で、自分のコンピューターならぬ「勘ピューター」だよね。大体あのコーナーは3速でいって、4速に入るか入らないか、そういうシュミレーションをしながら。

スターティグドライバーを勤めたのは長谷見選手。3番手グリッドからスタートした23号車は2週目にはトップに立っていました。引き継いだ星野選手のスティントでもプッシュは続きました。もはや慣れないサーキットではなく、チームは優勝を目標に戦いを続けました。

星野: ハンドルを握らせたら性格が変わるというくらい、そのぐらいの気迫というか、1位以外は何も言い訳がきかないというぐらいにデイトナは気合が入っていたね。

ナイトセクションとなり視界が厳しくなっても日産はリードを保ち、翌朝にはポルシェがリタイアとなりました。柿元氏は夜間走行でのリードの秘訣について次のように説明します。

柿元: このディスチャージランプ(HID)は明るくて、勝利に大きく貢献したんです。各社とも開発をやっていたんですが、市光さんの技術が優れていて、初めてレーシングカーにもきちっと採用されました。当時競っていたジャガーチームからも是非売ってくれという話がレース直後に来ましてね、値段はいくらでもいいって言うんですよ。我々もいいランプだと思っていましたが、他社から見ても非常に良かったということですね。

ポルシェが戦線離脱した後、23号車は昨年の覇者ジャガーに9周の差をつけて独走を続けました。ピットインした際に順位が入れ替わることがあったものの、実質首位の状態は続きます。

柿元: 余裕を持って、きっちりとした走りと壊さないことをやってきました。ところが思いもかけないことがおきましてね。それはデイトナのサーキットは比較的海岸に近いんですよ。ですから砂が飛んできまして、ラジエターが砂で目詰まりしたんです。水ではすぐには落ちないので、街に行って洗浄液を買ってきて、それをまいてブラッシングして、ラジエターの目詰まりを防ぐということですね。リードしていたこともあって、そういう手を打ちながら完走できたということですね。

ラジエーターの目詰まりが原因で水温が上がり、エンジンがオーバーヒートする懸念が浮上したのです。機転を利かせたクルーは砂を洗い落とすことに加え、高圧の水を注入しクーラントを入れ替えることで対処しました。

結局23号車は2位のジャガーXJR-12に9周の差を付けてチェッカードフラッグを受け、周回数記録を塗り替える762周、平均時速およそ182km/h、4,300km以上で24時間を走り抜きました。

星野: チェッカーを受けた瞬間、「やったぁ!」と誰も騒がない。あんなレースないよね。もう心臓が破裂しそうな感じで、言葉がないの。ただ涙が落ちてきて、言葉が10分から15分何もなかったね。難波さん、長谷見さん、鈴木利男さん、全員が何もないの。

報道陣にデイトナで参戦の自己採点を訪ねられた際、星野選手もチームもA+と評価したそうです。日本チーム・ドライバーによるデイトナ優勝は記録を塗り替えただけではなく、1994年の米国チームによるデイトナ2勝目の足がかりに、さらには日産のその後の輝かしいモータースポーツの道しるべとなりました。

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