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ミス・フェアレディの誕生と伝統

 

日本の首都東京がオリンピックの開催地となった1964年、日本は戦後の経済成長の最中でした。

1963年の銀座ギャラリーの様子

そのころ、さかんな新規投資によって東京の景観は徐々に変化しつつありました。ビジネスとエンターテインメントの中心地であった銀座は、国内や海外に新たな流行や商品を紹介する、人とモノの交流の場となったのです。

その勢いに乗ろうと、日産は独自のショールームを銀座の中心地にオープンし、社会にその存在を強くアピールしたことを、当時宣伝課長であった杖下孝之氏は覚えています。

杖下氏は、「三愛ビルの2階と3階にギャラリーを作りました。当時の銀座というのは、東京が日本の中心であって、その東京の中心が銀座ですから、銀座からすべての文化やファッションなど色々なものが拡がっていくところでした。それで日産自動車としても一流の企業として、そこにドーンとショールームを構えることにしたわけです」と当時を振り返ります。

お客さまを集めるために美しいショールーム・アテンダントを起用するだけでなく、彼女たちに商品に対するトレーニングを求めるアイディアが生まれたのは、そのときでした。

ミス・フェアレディ 第1期生

採用試験が行われ、数回の面接の末に、第1期生として5名の日産「ミス・フェアレディ」が選出されました。彼女たちのモデルとなったのは、1930年代に日産車の紹介をするために採用された「ダットサン・デモンストレーター」の女性たちでした。

杖下氏は、「日産の当時の宣伝担当課長が『ショールームがあるんだから、そこでお客さんに接して、説明をして、良いイメージを与えよう』と企画したのです」と語ります。

スポーツカーのダットサン・フェアレディ1500は1962年に発表されましたが、「フェアレディ」の名前は、当時大人気だったブロードウェイミュージカルを意識して命名されました。

ミス・フェアレディとダットサンフェアレディ1500

ミス・フェアレディがイベントや宣伝広告に登場し始めると、日産のプロモーション活動には欠かせない存在となっていきました。彼女たちは、新商品の発表やイベントに、頻繁に販売店などへ赴き、日産がスポンサーであったゴルフトーナメント会場に登場することさえありました。

接客の仕事は事務職よりも待遇がよく、かつては会社のクルマを貸与されるなどさまざまな特典もあったといいます。

1970年代初期にミス・フェアレディとして活躍した日向野順子さんは、「ミス・フェアレディ」は本当に出番が多く、契約期間の1年間がとても多忙だったことを覚えていました。

日向野順子さんは、当日の様子について「私たちは1年間だけの契約でしたので、(あちこちに出張で出かけていると)毎日が目まぐるしく過ぎていきました。地方の販売店さんで新しい車が展示された際には、その説明に、と借り出されました。大阪、福岡、岡山とさまざまな所に行かされたのを覚えています」と語ります。

日向野温代さん(左)と日向野順子さん(右)

日向野さんはミス・フェアレディの契約満了後、やがて結婚し、新しい家族ができました。

何十年かのを時を経て、こんどは娘の温代さんが母親と同じ道を進むことを決意しました。日向野さんは娘の決断を後押ししましたが、すぐに、その仕事が自分の経験したものから大きく進化していたことを知りました。

日向野順子さんは、「もちろん、あそこ(ミス・フェアレディ)に受かって、指導していただければ、もうそれ以上のことはないですからね。なので、(採用は)無理かもしれないけど一度受けてみれば?ということで応募させました。私たちの時よりもさらに多くの知識を得る必要があると感じました。子供が今やっている内容のほうが仕事としてより大変そうですし、『仕事』って感じがしますね」と言います。

トレーニングの様子

厳しいトレーニングに加えて、東京モーターショーや株主総会のような特別なイベントの舞台に立つことも、仕事の日課に加わりました。

日向野温代さんは去年まで横浜の本社に勤務していましたが、商品に対する知識は自分の努力だけで身につくことではないことを学びました。

日向野 温代さんは、「1年目の時にGT-Rが復活したのですが、1年目というのは、勉強はしていても、そこまでクルマについて詳しくない時期ですので、そんな時にこんな大きなクルマが出てしまったので、知識を詰め込むのに本当に大変な1年間でした。GT-Rについてはお客さまのほうが詳しい場合も多く、お客さまからも色々な情報を得て、お客さまからも学ばせていただきました」と振り返ります。

青島祐子チーフ

女性の昇進の限界が変化していく日本企業が多くある中で、「ミス・フェアレディ」のプログラムも女性がチーフとしてマネジメントを実施するようになりました。

現在入社5年目の青島祐子さんは、東京と横浜エリアの「ミス・フェアレディ」チーフです。

青島さんは、「新卒で入社してたくさんの事を学びました。たとえば立ち居振る舞い、話し方、礼儀、接遇も含めてしっかりと基礎から学びました。これからの仕事というよりも人間としての糧になっていくのではないかなと思います。どんな職業にしても活きてくると思います」と語ります。

山尾 百合子氏

山尾百合子さんは現在のトレーニング・プログラムを提供する会社の代表であり、元「ミス・フェアレディ」です。山尾さんはこのプログラムがその後のキャリアに大きく生きることを知っています。

山尾さんは、「こちらでは本当に高いレベルの教育システムを受けさせていただいています。ここを“卒業”したミスのOGたちはアナウンサーになったり、いわるゆるプレゼンテーション力を活かした職業、女優さんだったり、タレントさんだったり、もちろん専業主婦だったり、色々なところで活躍されています。比較的プレゼンテーション力を活かしたお仕事で活躍している方が多いですね。起業家も多いです。私も含めて」と述べます。

1970年の銀座4丁目交差点の様子

銀座のギャラリーができてから50年経つ現在、千人以上の女性がミス・フェアレディの制服を着てきました。

家族や世代に受け継がれていく伝統ですが、ひとつだけ、変わらないものがあります。

「ミス・フェアレディ」はきれいなだけの飾りものではない、ということです。

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