2012年12月12日
スカイライン伝説の始まり
日本のモータースポーツは半世紀以上もの間、多くの人を魅了し続けています。中でも、ある歴史的なレースが今もファンの間で語られ続けています。それは1964年に鈴鹿で開催された日本GPで起こった奇跡です。
これがスカイライン伝説の始まりでもありました。
出走前、GT-IIカテゴリのパドックには多くのスカイラインGTが並びます。セダンをパワーアップさせたこれらのクルマは、当時不可能とされていた、あることに挑戦しようとしていました。それは海外のチャンピオンと真っ向勝負することでした。
しかし、スカイラインは危うくレースに出場することができないところでした。出場権を得るためには、まずそのクルマの商品モデルが100台は生産されていなければなりませんでした。後に日産自動車と合併したプリンス自動車はぎりぎりでクリアしました。
スカイラインGTはロングノーズのデザインに、直列6気筒OHC1988ccエンジンを搭載しました。これは当時チーフエンジニアであった桜井眞一郎氏の独創的な発案でした。
1964年のレースに出場した砂子義一氏は、そのとき共に出場した39号車(スカイラインGT)と、50年ぶりの再会を果たしました。砂子氏は、始めてスカイラインを見たときの感想を、
「ボディをちぎって20cm伸ばしたような状態だった。ボディとしてはものすごくバランスが悪かった。しかもタイヤが全くダメなので、ドリフトするしかない恰好になってしまった。しかし、タイヤが滑ってくれるからボディの剛性も普通のままでよかった」と振り返りました。
テスト走行を何度か繰り返すと、砂子氏はクルマに秘められた特別なものを悟りました。
「見事にこのクルマが2分47秒というタイムを出したわけだから、当時の鈴鹿サーキットで一番早いのはこれだ! と威張っていたわけよ」と砂子氏は満面の笑みで語ります。
サルーンカーでありながらスカイラインは速くなくてはならないという宿命を負っていました。急きょ参加が決定した「ポルシェ904カレラGTS」という、驚異的な能力を持ったクルマと対決することになったからです。
スカイラインは最高速250キロと言われたポルシェに勝利することはできませんでした。しかし、砂子氏と同じスカイラインGTのドライバーであった生沢徹氏は、そこで日本のレース史に残る快挙を成し遂げました。
砂子氏は「ヘアピンの前で生沢がポルシェの前に出たわけよ。だから俺は『さすが生沢!』なんて思った訳よ」とそのときの興奮を振り返りました
スカイラインがポルシェをリードしたそのとき、鈴鹿サーキットにとどまらず、日本中のファンが歓喜しました。.
レースはポルシェが最終的に勝利する結果となりましたが、2位から6位まではスカイラインが占めるという好成績を残しました。2位の砂子氏と生沢氏の果敢な走りが日本国民全体を沸かせました。
現在日産自動車の最高執行責任者である志賀俊之は、そのレースに魅せられ、将来の道を決めた人物の一人です。
志賀は「レースがあったとき、私はまだ9つでしたが、この大きな出来事を覚えています。
「1964年は日本のモータリゼーションが急速に進んだ年です。そして、モータースポーツでは日産は常にその先頭に立っていました。私は(レースの結果が)嬉しくて、そのときから日産自動車に入りたいと強く思うようになりました」と当時を振り返りました。
30年後のデイトナ24時間レースの勝利などで国民的英雄となった元レーシングドライバーの星野一義氏も、スカイラインの奮闘に心を掴まれた一人です。
星野氏は「これは日本のモータースポーツのきっかけだよね。(僕は)これしか頭になかった。僕がモータースポーツに入るきっかけがすべてこのS54Bだから。
これがあって、僕はこの世界で歩んできた道だから。これがなかったら違う道を歩んでいたかもしれないね。」と、スカイラインの存在の重要性を語りました。
1964年の鈴鹿では、残念ながら勝利を手にすることはできませんでしたが、その後のR380シリーズ の開発へとつながり、わずか2年後にはポルシェを相手にグランプリを制しました。
そして、そのクルマのハンドルは砂子氏が握っていました。
砂子氏は「ポルシェに負けたのが悔しくてRシリーズができた訳だから、そういう意味では本当にポルシェのカレラがきたってことは素晴らしいことだったってことなんです」と説明しました。
特に39号車はファンの間でも人気が高く、今回、日産の開発部門のボランティア社員たちが延べ数百時間もかけて復元することに挑戦しました。
日産の座間にある記念庫で保管されていた伝説のクルマが、その栄光の象徴である鈴鹿サーキットで走るのを見たいという強い思いが彼らを動かしました。
社員による「名車再生クラブ」のリーダーである木賀新一は39号車が鈴鹿サーキットを走る姿を見ると「感動でしたね。やっぱり、サーキットで走ってこそのクルマだというのを感じました。座間の記念庫に保管してあるときではこれは寝ているのと同じで、ほとんど死んでいる状態です。ですがここに来て輝いているのを感じました」と感動もひとしお。
伝説を築いたスカイライン。そして、その伝説はその後の12世代に渡って今も受け継がれています。
それは昨年亡くなられた桜井氏に対する最大の追悼かも知れません。彼の残したイノベーションとワクワクは現在も受け継がれているのですから。